2年間で何をすべきか

晴れて大学院に進学した私は日本語教育研究科のオリエンテーションに参加しました。
そこである教授が挨拶で「みなさん、入院おめでとう。」とおっしゃいました。

その時は、特に何ということもなく「毎年言ってんだろうな。」ぐらいの印象でしたが、後になってこの言葉が、いかに皮肉と激励に満ちたものであるかが身に染みてわかったのでした。

「さて、これからどうやって2年間を過ごそうか。」と私は考えました。

2年間なんてあっという間です。2年後には就職のメドがたっていなければなりません。
よほど効率的にして結果を残さないと必ず後悔すると思いました。

当時は博士課程後期に進む気持は全く持っていなかったので、入院早々気持はやや焦り気味でした。専門で周りと張り合っていく自信など、その時は全くなかったことも、当然のことながら原因の一つでした。

その時、脳裏をよぎったのが「結果から逆算して考える。」という発想でした。最終結果から逆算して今何をなすべきかを考える発想です。

この言葉に私が最初に出会ったのは、高校生の時に手にした和田秀樹さんの『受験は要領』という本でした。

和田秀樹さんは精神科医である一方、受験勉強のスペシャリストとしても有名です。大学受験の勉強法をまとめた『受験は要領』は彼の最初の著書で、いきなりベストセラーになりました。

日本語教育でも「言語学習ストラテジー」というのがありますが、こっちの方が遥かに戦略的です。「数学は暗記だ。」「古典は予め頻出作品の現代語訳を読んでおけ。」「受験に関係のない授業では堂々と内職しろ。」など、実に斬新でした。

話が少々それましたが、それで、結局私が出した結論は以下の3つを卒業までに揃えるということでした。

1.日本語教育能力検定試験合格
2.1年以上の実務経験
3.学歴・研究業績

これは、つまり多くの教育機関で出されている採用条件です。

1は院1年目に受けようと思いました。1年目ならまだ院試の名残で多少は頭が冴えているし、2年目は修論で試験どころではないだろうと思ったからです。

2については、広島県には既にいくつか日本語学校がありましたが、当時よそ者丸出しの私には近づく術すらありませんでした。

だから、とにかく人脈を作ることが先決で、後はそのコネで何とかするしかない、とそれぐらいしか思いつきませんでした。

3はとにかく卒業すること。この点はあまり心配はしていませんでしたが、研究業績となると、皆目見当もつきませんでした。

専門の知識も覚束なかった私にとっては、日本語教育で論文を書くなど想像すらできませんでした。(それで院に行くのだからいい加減です。)

「修論の一部をどこかに発表できたらラッキーだな。」とぼんやり考えるのがいい所でした。

前途多難ではありますが、こうして多少なりともビジョンが見えると、それだけで気持が一瞬落ち着きました。

後は、これらに支障がない程度に最大限アルバイトを入れれば、基本的なライフスタイルは出来上がりです。

闇のトンネル

いよいよ大学院の授業が始まりました。そもそも授業自体が少ないし、アルバイトの時間も確保したかったので、私は授業を週3日に固めました。

「楽勝。楽勝。」

しかし、現実はそう甘くはありませんでした。授業の数は少なくても、その一つ一つがとてつもなくヘビーだったのです。

大学院の授業では、講義というものはありません。ほとんどが研究活動です。極端な言い方をすれば授業の数だけ共同研究を掛持ちしているようなもの。学部の授業とはまるで違います。

研究テーマごとにグループと分担を決め、授業で研究の進捗状況を報告し、批判しあう。それが大学院の授業でした。

ところが、私は分担を与えられてもそこから何をしたらいいのか、さっぱりわかりませんでした。

授業で教授の言葉から出てくる専門用語の意味もまるでわかりません。他の学生は分かったような顔をして、当たり前のように作業にとりかかる。でも、私だけ分からない。とりあえず隣の学生がやっていることを、見よう見まねでやってみる。でも、何のためにこの作業をやっているのかわからない訳です。

というか、隣の学生と私とは分担が違うので作業の内容も違うのです。そのことに気づきもしない。仕方がないので、授業が終わった後に教授に質問に行くと、「その質問は、学部レベルだねえ。」といわれる始末。

己の実力のなさを思い知らされる毎日でした。

「おかしいなあ。これでも院試には合格したはずなんだけど…。」
「まるで留学生?」

なんともいえない居場所のなさというか、自分の存在自体に自信をなくす思いをしたのでした。

こんなこともありました。ある授業の最初のオリエンテーションで、15ぐらいの専門用語を説明させる小テストがありました。

見ると、今まで院試勉強のときでも見たことがないカタカナの用語ばかりです。結局私は1つも満足に答えることができませんでした。

他の学生もそれほど出来がよかったわけではありませんでしたが、1つもできなかったのは私だけでした。

「あなたたち、それでどうするの?」

教授にこう言われたら、普通なら「すみません。」と素直に頭を下げてじっと耐えるところですが、その時の私はそんな場の雰囲気を感じ取る心の余裕もなく、

「院試に合格させたあなた方にも責任がある。私たちに分かる授業をしてください。」

と逆にくってかかったのでした。

今思えば顔から火が出るほど大変失礼な発言です。幸いその教授は非常にすばらしい先生で、その後も懇意に接していただいたので、なんとか最後まで受講することができました。

そんなこんなで、入学してからしばらくは、やることなすことがことごとくちぐはぐで、「小手先の院試勉強ではどうにもならないんだ。」とばかりに、徹底的に打ちのめされる毎日でした。

「ここに来るの、早すぎたかなあ。」「場違いだったかなあ。」

「山より大きな猪はいない」という田中角栄の言葉を思い起こしながら、なんとか自分を奮起させようとするのですが、人間そんなに強いものでもありません。

2年しかないのにこんな状態でどうするのか。出口のない、引き返すことのできない、闇のトンネルに入ってしまったような気分でした。

なぜか雪かき

授業のことでいつまでもくよくよしていても始まらないので、とりあえずアルバイトを探すことにしました。アルバイトは、単に収入が得られるというだけでなく、私にとってはいい気分転換にもなりました。

仙台にいたころ、私はよく学生専用のアルバイト紹介所に通ったものでした。そこは、東北大生だけでなく、宮城教育大や東北学院大、東北福祉大などからたくさんの貧乏学生が職を求めてやってきていました。

日雇いでも何でも、とりあえずそこに行けば何がしかの職はあったので、非常に重宝でした。

ところが、大学が移転したばかりの東広島市にそのような気の利いた施設はあろうはずもなく、とりあえず、私はアルバイト情報誌を読みあさっては、電話をかけていきました。

それで、はじめてつかまえた仕事が石屋の日雇いでした。地図で確認するとちょっと遠い感じでしたが、「ま、いいか。」とあまり気にも留めませんでした。

アルバイト先まで行くには、JR西条駅から一旦広島駅まで出て、そこで芸備線に乗り換えなければなりません。

ちなみに、東広島市と広島市は気温が数度違います。「コートを着て西条駅に乗って、広島駅でコートを脱ぐ。」といった感じです。ルートが逆の場合、着るものを考えてから乗らないと悲惨です。私は、アルバイトの前日がちょっと寒かったこともあって、服を厚めに着ていきました。

電車がどんどん進むにつれて窓の風景が白くなっていき、駅に着いたころには、すっかり銀世界でした。

「確か広島は尾道のある県だよな~。」

私の実家がある愛媛県伊予郡松前町は、年間通してほとんど雪は降りません。また、広島といえば尾道3部作のイメージしかなかったので、銀世界は意外でした。

会社に着くと、中から社長らしき人が出てきて「今日はこんな状態だから仕事は無理だ。せっかくだから雪かきでもしていってくれ。」と言われました。

というわけで、シャベルで雪をすくっては、水が流れる側溝に落としていく作業を昼過ぎまでやりました。

実は、私は仙台にいたころ一度も雪かきをしたことがありませんでした。仙台は、東北の割には積雪量が少なく、また、主要な道路には定期的に融雪剤を撒くので、多少注意して生活していればさほど不便はなかったのです。

(それでも慣れない学生はちょくちょく事故を起こしていましたが…。)

「広島で雪かきかあ。」

何かにつけいちいち些細な違和感を感じながら、なかなか調子が上がらない毎日でした。

授業奮闘記(1)

大学院の授業は、そのほとんどが研究活動かあるいはそれに近いものであることは以前書きました。今回は、もう少し具体的に書いてみようと思います。

一番最初に思い出す授業は、受講生4名と教授、そしてTAとして参加している博士課程後期の先輩(女性)で共同研究をする、音声学の授業です。研究の内容は、日本語のア・イ・ウ・エ・オを様々な感情で言った時の韻律的特徴を探っていくというものでした。

例えば、うれしい時の「アッ!」と落ち込んだ時の「ア~」の発音の仕方がどう違うか、そういうことを調べるわけです。

どうしてこの授業を最初に思い出すのかというと、この授業のおかけで、業績が2つもできたからです。

前後期それぞれ1本ずつ共同研究で論文を書きあげました(といっても、実際書いたのは先輩ですが…。)。うち一つは科研費報告書として、もう一つは大学紀要に出しました。
先輩に手ほどきを受けながら、音声サンプルをデジタルテープ(当時DATテープというのを使っていました。)で収集し、それを「音声録聞見」という東大研究グループが開発した音声解析ソフトを使って解析する。そして、その結果について考察したレポートを先輩に提出するわけです。

暇そうな友達を、密閉したスタジオに連れてきては、びっくりした時の「アッ」とか、悲しい時の「ア~」とかを言わせて、それをどんどん録音していきます。

さながらダウンタウンのネタのようで、笑いそうになるのをこらえながらやってました。

で、そのサンプルを解析ソフトにかけるとピッチ曲線やら音の強さやらがグラフのような形で出てくるわけです。それを見ながら、ない知恵を絞って考察を加えていく。

前期の授業がおわって出来上がった論文を読むと、私の考察などまるで必要がなかったのではないかと思われるほど、高尚な文章が続いていました。

「拙い考察しかできなくてすみませんでした。」私は思わず先輩に謝ってしまいました。
「そんなことないわよ。今年はみんなしっかり考察してくれてたから、私もまとめやすかったわよ。」

お世辞とはわかっていても、この言葉で随分気持が楽になったのを今でも覚えています。
結局、私は修士を卒業するまでに、この授業2つに個人研究1つを加え、なんとか計3つ業績を作ることができました。

この授業は、特に業績を狙ってとったわけではなく、たまたま受講したのがこういう結果になったわけで、もし、教授や先輩の指導がなかったら、にわか院生がとてもこれだけの業績を作ることはできなかったと思います。

この業績のおかげで、それから後、非常勤講師のアルバイトや就職活動を有利に運ぶことができたし、なによりも私自身大きな自信につながったのは確かです。

ですから、この授業には本当に感謝しています。後期の授業が終わって2つ目の論文ができたころでしょうか、私はうれしくなって、ある時、古典文法を専門にする先輩(男性)に、「なんとか業績ができました。」というと、

「あの授業、毎年同じ実験やってるけど、いつになったら終わるのかねえ。」

-えっ。そうなんだ。

とにもかくにも、これで、入学当初掲げた目標のうちの一つに大きなメドが立ったのでした。

授業奮闘記(2)

次に思い出す授業は、異文化コミュニケーションの授業です。以前書いた、授業の最初に小テストをやって私が1つもわからなかったという、あの授業です。

この授業では、エスノグラフィーについて学びます。

エスノグラフィーという言葉はあまり耳慣れないかもしれません。日本語ではよく「民族誌学」と訳されます。

この学問は、ある特定の集団・個人の生活様式や価値観等の解明を目指すもので、対象となる集団や個人の生活の中に実際に入り込んで彼らを観察する(これを「参与観察」という)、一種のフィールドワークです。

昔「Dance with Wolves」という映画がありましたが、ちょうどあんな感じです。で、授業の内容は、一方で専門書(英文)を講読しながら、一方で調査対象を自分で探して参与観察をし、その進捗状況を報告するというものでした。

講読の分担も半端ではないし、調査の報告というのもヘビーです。下手すれば他の授業にも差し支えます。

という訳で、開講当初10名以上いた受講生はあれよあれよという間に4人ににまで減ってしまいました。

「逃げ遅れたか……ま、しゃーねーか。乗りかかった船だ。」

かくして私は残ったわけですが、さて、調査対象をどうやって探すか、新参者の私には全くあてがありませんでした。

他のメンバーは、みんな学部から広大だったのでそれなりの人脈もあり、近くの小学校の英語の授業を観察するだの、日頃日本語を教えているブラジル人の生活を観察するだのと、フィールドをどんどん決めていきました。

なのに、私は一向に決まりません。困り果てたあげく、同期の友人に相談すると、

「ぼくが日本語を教えているブラジル人ね、ほとんどがコンビニ弁当の工場で働いてるよ。」
「え、そうなん? そこ、バイトの募集やってないかな。」
「ときどきやってるみたいだよ。」

よっしゃー!!

これが決まれば、単位は取れるしバイトもできる。まさに一石二鳥です。

私はすぐさま求人情報誌を買って調べてみました。

「あった!!」

かくして私のフィールドは決まりました。

この工場では、昼間はパートのおばちゃん連中が、夕方から朝にかけては出稼ぎブラジル人が、流れ作業でどんどん弁当を作っては、県下のコンビニに配送していきます。当然私は夜の部です。ブラジル人に混ざって仕事をする。そして、家に帰って、その日あったことを思い出しながらノートに記録していきます。

彼らはみな1990年の入管法改正によって入国が許可されるようになった日系ブラジル人です。

夜中の弁当工場など、日本人の若者はなかなか就こうとしない。その穴埋めをしているのが彼らなわけで、かつて日本人が新天地を求めてブラジルに移住していった、全く逆の現象がここにあったのでした。

そこで私は、外国人労働者を取り巻く労働環境の問題、彼らに対する日本語教育の問題、親についてきた子どもの教育の問題など、専門書や授業ではとても得られないものを、目の当たりにすることができたのでした。

そういう意味で、私にとっては非常に学ぶことの多い、いい経験だったと思います。働き始めてすぐぐらいでしょうか。人懐っこい彼らは私にいろいろ話しかけてきました。

「ブラジルノ アイサツヲ オシエテアゲルヨ。」

私はうれしくなりました。

「オンナノ ヒトニ イウトキ、アサハ”ピントドゥ”、ヨルハ”ピントベケーノ”」

そこで私は、職場の廊下でブラジル人の女性とすれ違うたびに、笑顔で「ピントドゥ。」「ピントベケーノ。」を連発しました。

不思議なことに、それを聞いた女性はみな顔を赤くして笑うのでした。後でわかったことは、「ピント」は男性の性器を、「ドゥ」は「大きい」、「ベケーノ」は「小さい」という意味だったのでした。

暑中見舞い300枚の効果

広島に来て痛感したのは、研究活動にしても何にしても、他人の協力がないと満足な活動は何もできない、ということでした。このことは、新参者で学問的なストックに乏しい当時の私にとってはかなり致命的なことでした。

「とにかく人脈を作らなきゃ。」

そこで私はまず、院生室に毎晩通って勉強することにしました。院生の先輩の中には、昼間ではなく夜に院生室に来て論文を書く人がいます。

先輩方も昼間は昼間の活動があるし、第一、にぎやかな昼間に来ても仕事は捗りません。
私は、毎晩院生室に通うことで先輩方に自分の顔を覚えてもらうようにしました。夜来る学生はだいたい決まったメンバーなので、先輩方ともすぐに知り合いになり、広大のことや研究活動についていろいろと教えていただくことができました。たまに飲みに行ったりカラオケに行ったりもしました。

留学生(博士課程後期)の先輩から論文のネイティブチェックを頼まれた時には、「自分もそれなりに認められたのか。」と、ちょっと嬉しい気持ちになったのを覚えています。
次に、人脈を広げる作戦として私は、1年目の夏に暑中見舞いを300枚書きました。
人脈を広げる上で葉書の力は絶大です。私はこれを学部のときから実践していました。

とはいえ、一言で300枚といっても、書くとなると結構な量です。

院の先輩や同輩、先生方はもちろんのこと、学部時代の知り合いや親戚縁者にいたるまで、とにかく書いて書いて書きまくりました。

夜中に院生室でプリントごっこ片手にパシャパシャやってる私を韓国人の先輩から、「あなたは政治家ですか?」と言われたこともありました。

でも、それが功を奏してか、院1年目にしてある先輩から「近くの日本語学校で日本語の先生を募集してるんだけど、10月からやってみる?」と誘われました。私は「他の人に取られちゃいかん。」とばかりに「絶対やります!」と即引き受けました。

結局、その話は流れてしまったのですが、それが結果的に布石となって翌年の4月から日本語学校の非常勤講師をすることになったのでした。

「よし、これで実務経験はGET!!」

当時、非常勤といっても実務経験がないとなかなか雇ってもらえないという感じでした。そういう意味では、かなりラッキーだったと思います。

とにもかくにも、これで3大目標の1つをものにしたのでした。

フィリピンパブ(1)

広島に来てしばらくしてから、私はアルミサッシの取り付けのアルバイトを週1~2ぐらいのペースでするようになりました。

で、そこの会社の親方が恰幅のいいとてもおもしろい方で、本人は一滴も酒が飲めないのに、「飲みに行こう!」と言っては、私をよくフィリピンパブに連れて行ってくれました。

店に入って席に座ると、若くてきれいなフィリピンの女性がぴったりくっついて二人の横に座るわけです。

「コンバンワー。」
「アラ、オニイサン、カッコイイネエ。」

二十歳そこそこの私には結構な刺激でした。

それで、二人はジョッキ片手に話をする。親方はお決まりのウーロン茶、私はビール。思えば変な図柄です。彼女達と話をしていてちょっと意外だったのは、大卒の女性が結構多いということでした。

だったら地元の企業に就職したらいいじゃないかと言うと、フィリピンには仕事がないんだと返ってきました。

「そうなのかあ。」

ふと女性達の手元をみると、たいていの子がいつも小さな手帳を持っていました。

「なに、それ?」
「ニホンゴノ ベンキョウ。」

中を見せてもらうと、アリのようなちっちゃい字でお酒の名前やら、あいさつ表現やら若い男性がムラムラするような言い回しなどが、びっしり書かれてありました。

「すごいね。」
「ソウ、マイニチベンキョウネ。」

屈託のない笑顔が返ってきました。私は、そこに書かれている日本語、彼女達の気迫さえ感じる日本語の羅列に圧倒されてしまいました。ステージでダンスショーが始まってそれを見ている時、親方がおもむろに女の子の一人を指差して、

「あの子ね、割と若く見えるやろ。」
「はい。」
「フィリピンに子供が2人おるや。」
「え、そうなんですか。」
「そう。子供は年取った婆さんに預けて一人で稼ぎに来とるんや。」

さっきの手帳といい、親方の話といい、二十歳そこそこの私にはきっと考えもつかないようなものを、確かに彼女達は背負っていると感じました。そして、その重荷の一端に日本人が関係していることも、後の親方の話で知ったのでした。

フィリピンパブ(2)

親方の話によれば、日本のパブに働きに来るフィリピン女性には、一定の行動パターンがあるのだそうです。(この話は、10年以上も前のものなので今どうかはわかりません。また、この話もどこまでがどうなのかわかりません。あくまでも親方の語った話です。)

◇      ◇       ◇       ◇

例えば、話の主人公をAさん(女性 15歳)とします。彼女は今、家族といっしょにフィリピンで生活しています。家はとても貧しくて、やさしい彼女はいつか自分も働いて両親や祖父母を楽にしてあげたいと常々思っています。

そんな時、親戚縁者で集まる機会がありました。すると、いとこのお姉さんがとてもきれいな化粧で、あか抜けた服を着て、いい香りがする香水を身にまとって、親戚縁者にお金をばら撒いています。

2年前にあった時とは、随分違っていました。

「お姉さんすごい。どうしたの?」
「日本って国で働いてきたのよ。日本はいい国よ。日本で働いたらたくさんお金がもらえるのよ。」

それを聞いたAさんは、「私も日本で働きたい。日本でたくさんお金稼いで家族を楽にさせてあげたい。」と思うようになります。

そこで、近くのダンススクールかなんかに通って、それで興行ビザかなんかを取得して、日本人の紹介で同じような友達といっしょに来日、パブで働くことになる訳です。

ところが、日本での生活は楽ではありません。狭いたこ部屋にぎゅうぎゅうに押し込まれ、少しでも仕送りができるようにカップラーメンの毎日です。しかも、初めて家族とはなれる寂しさ、辛さ。精神的に追い込まれていきます。

一方お店では、少しずつ自分を指名してくれる客がつくようになりました。日本語も少しずつ覚えてきたので、客とも会話ができるようになりました。

そんな時、自分に好意を持ってくれる客と出会います。その客は自分のことをいろいろと気遣ってくれたり、何かとプレゼントをしてくれたりします。そんな彼をAさんも次第に好きになっていきました。

そしていつしか、夜を共にするようになります。ある日、Aさんは自分が妊娠していることに気がつきました。彼が妻子持ちであることは前から知っていたので、すぐには言い出せずにいました。いろいろ悩んだあげく、やはりAさんはこのこと彼に打ち明けます。

彼は一瞬びっくりしましたが、「わかった。今の妻とは別れる。結婚しよう。」と言います。Aさんはとても喜びました。

「でも、すぐには無理だ。妻を説得したりいろいろ手続きもある。君もそんな体だと働けないだろうから、先にフィリピンに帰って僕を待っていてくれ。必ず迎えに行くから。」その言葉を信じて彼女は国に帰り出産します。

しばらくは電話や手紙でやり取りしていましたが、次第にその回数が減り、とうとう音信不通になってしまいます。

始めのうちは「彼もいろいろ忙しいんだわ。」と思っていましたが、1年たっても何の返事もないことで初めて自分がだまされたと気がつくのです。来日のための借金はまだ返していない。おまけに子どもも増えた。フィリピンでの生活は、来日前より逆に苦しくなりました。

しかし、フィリピンにはいい仕事なんてありません。今の生活をなんとかするためには、やっぱり日本で働くしかないのです。そこで彼女は、自分の子どもを家族に預けて再度来日します。

「今度は絶対に男にだまされない!子どものために。家族のために。」

初めて来日した時のかつての初な自分とは全く違います。そして彼女は、上手く男心をくすぐりながら、安易に体を許すことなく、徹底的にお金を稼いでは、実家に送金しながら貯金します。もちろん、体はぼろぼろです。

そして、ある程度満足のいくぐらいのお金がたまったら、帰国。かつてのお姉さんのように親戚縁者に金をばら撒くのです。

こうして同じサイクルが延々と繰り返されていくのです。

◇      ◇       ◇       ◇

私は、その話を親方から聞いて何ともいえない気持ちになりました。

そういえば、一時期日本とフィリピンがFTAを結び、介護分野でのフィリピン人労働者を受け入れるという話が、日本語教育の分野でも話題に持ち上がったことがありました。
今その話がどうなっているのかよく分かりませんが、それによって「フィリピン人=パブのお姉さん」というイメージが払拭され、社会的地位も上がるのであれば、私は積極的に進めてもらいたいなあという気持です。

男にだまされた国。辛い思いを強いられた国。そんなイメージはできればもって欲しくないと思います。当たり前ですが。

1万円で業績を買う

修士論文の研究にある程度のめどがついて、少しずつ実働し始めるころになると、先輩の院生や指導教官から「修論の一部をどこかレフリーつきの学会に発表なり論文を投稿するなりして、少なくとも一つは業績を作りなさい。」と言われるようになりました。

同じ修論でも、学会の審査を受けたものとそうでないものでは、全く評価のされ方が違うのだと言われました。学外の評価の目にさらされたものは、それだけの水準にあると認識されるそうなのです。

たとえそれが超マイナーな学会であっても構わない。とにかく批判の目に堪えうる研究であるということを示すことが大切なのです。

私も、「修論の一部をどこかで発表できたら、修論審査で落とされることはまずないだろう。」と思いましたので、なんとか果たしたいと考えていました。

とはいうものの、そんな実力が私にあるのだろうか。ついこの前まで授業でちぐはぐなことばかりやっていた自分に、そんな大それたことができるのだろうか。

しかし、そんなことを言っていても前には進みません。とりあえず理屈っぽい論文は書けないと思ったので、アンケート調査かなんか、結果が出やすいものがいいと思いました。
それで、何かないかとネタを物色しているときに、いつも懇意にしてくださっているある先輩の院生(韓国人)から、「篠崎さん、『いちおう』と『とりあえず』と『一旦』の使い方がよくわからないんだけど…。」

「どうして?」

よくよく話を聞いてみると、韓国では「いちおう」や「とりあえず」の代わりに「一旦」を使うことが多い。例えば、居酒屋で「とりあえずビール。」と言うべきところを、韓国では「一旦ビール」と言う。だから、時々使い方を間違えては、日本人から指摘されるのだそうです。

これは使える!

そこで私は、こういった似た意味の副詞の使い分けに関する調査を日本人母語話者に対して行うことにしました。その結果を学習者に示せば少しは参考になるかなと思ったからです。

次に、それをどこに発表するかです。これもある別の先輩から「中四国教育学会」を紹介していただきました。

この学会は、その名のとおり中四国の大学を中心に運営されているもので、日本語教育だけではなく、教育学や幼児教育・教科教育など、とにかく「教育」と名のつくものなら何でも来いといった感じの学会でした。

それで学会費1万円を払えば、ほぼ無審査(建前上は審査ありなのだそうです。)で口頭発表と論文の紀要掲載ができる、とても敷居の低い学会だったのです。

なので私達院生のような超若手研究者にとっては経験が積めて業績もつくれる格好の機会だったわけです。

だから、学会紀要も半端ではありません。1冊ではまとまらないので2冊組み。しかも1冊が500ページにもなる、かなりのボリュームです(1996年のもの)。

「これって、1万円で業績を買うってことですか。」
「まあ、そういうことだね。でも、いい経験になると思うよ。」

というわけで、私は学会用に論文をまとめゼミでリハーサルをし(そういえば、あのころ第二言語習得のS先生はまだ院生だったなあ。)、学会に臨みました。

今思えば、私のような者にとって中四国教育学会の存在は「本当にありがたかった。」の一言です。自分の手の届く所に目標があるということが、どれだけやる気や希望を持たせてくれるか実感したのでした。

とにかく私はこれで、共同研究2つ、個人研究1つ揃えることができ、卒業も(私の中では)当確印がついたわけです。

「業績作りはこれで充分。」

そう思った私は、他の目標に意識をぐっと傾けていきました。そういうわけで、学会発表以後の修論執筆も結構流してたような気がします…。O先生、すみません。

非常勤の思い出

以前にも書きましたが、院生2年目の4月から、先輩の紹介で広島県下の日本語学校へ、非常勤として週1~2日勤めることになりました。

JR西条駅から電車に乗って30~40分ぐらい。電車を降りると、事務の方が車で迎えに来てくれていて、そこからさらに10分ほど走った、ちょっとした丘の上に学校がありました。

初めて担当したクラスは、初級の大学進学クラス(就学生)と、ビジネスマンを対象とした中級のクラス。実習の経験すらなかった私にとっては、なにもかもが初めての経験でした。月並みな言い方ですが、希望と不安が入り混じった感じです。

当時の学校の先生方からは、初心者同然の私に授業の進め方から学生の接し方、教室外での対応等、いろいろとアドバイスをしていただきました。

それから、当然のことながらいろいろな学生との出会いがありました。特に思い出深いのはビジネスクラスの学生です。(あくまでも授業ではありません。学生です。)

このクラスの学生は、韓国のサムソンから派遣された課長レベルの社員で、ほとんどが私より年上の方でした。クラスの雰囲気といえばとても熱心で、そして和やか。

一方、私といえば、与えられた時間をどうやって乗り切るか、自分の担当の内容をどうやって時間いっぱいに伸ばすか、そんなことを考えるので精一杯でした。

当時は授業の定石など知りもしない。徹頭徹尾、我流です。当時は、参考にできる資料も少なかったし…。(これは、言い訳)

だから、当時の授業の内容など、思い出すだけでも深くへこんでしまいます。

で、授業のあとはたいてい、「先生、今日は飲みましょう。」とサムソンの学生に誘われ、近くの居酒屋か学校の寮でよく酒を飲みました。

当時は、「なんて韓国の学生は酒が好きなんだ。」といった印象でしたが、今思えば、ガチガチに緊張していた私をなんとか和ませようと、随分と気を使っていたのだろうと思います。

そして、飲み会が終わって電車に乗るわけですが、乗っている途中でうとうととしてしまい、気がついたら降りるはずの西条駅をすっかり通り越して終点の広島駅。

あわてて乗り換えてもまたその途中でうとうととしてしまい、気がついたら西条駅を3駅ぐらい通り越した、山の中の駅。

あわてて降りてホームで電車を待っていると、駅員がやってきて、「もう、電車来ませんよ。」仕方なく、タクシーに数千円払って家に帰ることになるわけです。

「何やってんだろう、俺。一日働いても意味ないじゃん。」

こんなことが少なくとも月に一回ぐらいはありました。

と、まあ、そんなこんなでいろいろありましたが、私にとってはここでの経験がプロとしての日本語教師の出発点でした。

だから、最初にいただいた給料袋は今でも大切に持っています。24,740円。ホッチキスで明細書が貼り付けてある茶封筒を見る度に、「これがスタートだったんだなあ。」としみじみ思います。

これがあったから、今の私がある。

だから、私を推していただいた先輩、雇っていただいた学校やそこの先生方、そして私を鍛えてくれた学生の皆さんには本当に感謝しています。

あの茶封筒から走り続けて、気がついたらもう10年です。折にふれ、この茶封筒を見ては当時のことを思い出してきました。この給料袋は私を初心に帰らせるいいアイテムになっています。

これから日本語教師を目指す方、最初にもらった給料袋、ずっと宝物にしてみるのもいいかもしれません。

私の就職活動(1)

院2年目も後期になると、少しずつ就職活動が頭の中をちらつく時期です。私の場合、進学は全く考えていなかったので「そろそろ就活考えなきゃなあ。」という程度の意識でした。

日本語教育の就職先というと、国内外の大学、日本語学校、日本語教育関連機関というのが主です。

普通なら大学職を希望するところでしょうが、私ははじめから日本語学校を希望していました。

自分はまだ大学職につけるほどの器ではないと思ったこと、そして若いうちにいろいろなタイプの学習者に接して日本語教師としての見識を広げておきたいという考えがあったからです。

もともと「研究者ではなく教育者こそ自分の進む道。」という考えは、随分前からありました。とはいっても9月や10月ごろは、まだ具体的な活動は全くしていませんでした。

日本語学校の場合、新年度生の応募状況や入管審査などの関係もあって、就活が活発化するのが正月前後だったと思います。

遅いと2月や3月に募集があったりする。結構ギリギリなのです。だから履歴書の空白を埋める努力はしたものの、就活そのものは割とのんびり構えていました。

そんな時、当時非常勤をしていた日本語学校の先生から、

「篠崎さん、卒業したらどうするの?」

と聞かれました。

「一応、就職を希望しています。」

「この学校に来る?」

「はい。もちろんです。」

私は二つ返事で答えました。

今非常勤をしている日本語学校にそのまま就職するなど、正に願ったり叶ったり。学校の様子もわかるし、先生方も気心の知れた方ばかりです。なにより就活の手間が省け、その分修論や新生活に向けての準備(つまりバイト。)に全精力を傾けることができます。

とはいってもまだ半信半疑。

「本当に就職できるでしょうか。」

「正式にお願いするのはもう少し後になると思うけど、こっちも男の先生が欲しいし、篠崎先生は学生からも人気があるし、80%間違いないと思うわよ。」

よっしゃーー!!

こんなに順風満帆な人生を歩んでいいものかしら、といった感じでした。

思えば1年前、学部から日本語教育を勉強してきた同期生に混じって、他大学他学科しかも留年のため1歳年上。(意外とちっちゃいコトにこだわる小心者です。)

授業で恥ずかしい思いをしたり、初めて学会で発表したり、検定試験を受けたりと、広島に来てからあった様々なことがまるで走馬灯のように(実はあまり馴染みはないんだけど)蘇ってきました。

……というわけで、就活をする必要がなくなりました。

後はできるだけ経験値を高めるべく、修論の提出期限が近づくにつれて日本語教師の単発バイトをスケジュールにどんどん入れていきました。論文提出が近づくと2年生は皆バイトを手控えます。だから私のような人間には現場経験を増やす絶好のチャンスなのでした。

検定試験合格。研究業績3部。実務経験1年。そして日本語学校就職。

我ながらここまでよく頑張った。

……頑張ったなあ。

ほんとによく頑張った。……

やればできるじゃないか。

そんな時でした。

11月か12月ごろだったと思います。

日本語学校から1本の電話がありました。

「大変申し訳ないんですが、採用の件なんですが、だめになってしまいました。」
「えっ!はっ! はあ、そ…そうなんですか?」

聞けば、私ではなく、私と同じように非常勤講師をしていた同期の女性に採用が決まったということでした。

「ごめんなさい。こういうことはできるだけ早く連絡したほうがいいと思って。」

私はしばらく受話器の前で呆然としていました。

私の就職活動(2)

-どうしよう。

もう就活はしなくてもいいと思っていたので、情報収集も何も全くしていませんでした。その時は、ただ困ったとしか言いようがなく、どうやって活路を見出したらいいのか皆目見当がつかない状態でした。

ところが、ところがです。

「捨てる神あれば拾う神あり」とは正にこのこと。

大学の掲示板に日本語学校の求人広告が貼られていました。

「あっ、ある。」

私は早速窓口になっている先生のところへ行き、自分の意思を伝えました。それから先方の日本語学校と連絡を取り、履歴書を用意し、模擬授業の日程を教えてもらいました。

「うわっ。修論発表会の直前かー。きついなあ。」

しかし、そんなこと言っていられません。

模擬授業は初級と中級の2つ。初級は『みんなの日本語』第23課「~と、~」 「~とき、~」のコミュニカティブ活動。中級は『中級から学ぶ日本語』(もちろん旧版)第24課「なおす」の本文読解。

しかも授業は実際の外国人クラスで実施。

-模擬じゃないじゃん。

ですが、この頃の私はすでに非常勤1年の経験がありましたし、企業研修生への出張指導、JAICA委託の技術研修生への日本語指導等の経験もありましたので、レベルごとのクラスの雰囲気はだいたいつかんでいました。

-よーし、やったるでーー!!

経験というのは本当に大きな財産だと、その時つくづく思いました。私は、教材とメモ程度の教案を手に静岡へ行きました。

模擬授業の直前、教務主任の先生から、

「教案あったら見せてもらえる?」
「メモ書き程度のものですけど…。」
「あ、ほんと。字汚くて何書いてるか全然わかんないね。」
「まあ、自分が分かればいいですから。」
「それもそうだね。」

また、理事長からは、

「これから授業をしてもらいます。授業の内容によっては採用はありませんから。」

と言われました。

-ひっくり返したるがな。

中級クラスの時、学生十数名の後ろには理事長、教務主任、専任の先生方が腕を組んでこちらを見ていました。中には癖のある学生もいましたが、やるべきことはやったという感じでした。

そして、授業が終わるや、理事長が私のところへやってきて、

「篠崎先生、ちょっと給料の話をしたいので、上の部屋に来てもらえませんか。」

よっしゃー!!。

こうして、私はなんとか危機を脱し、職を勝ち取ったのでした。
最後の大仕事でした。

………あ、まだ修論発表会があった。

修論発表そして卒業

いよいよ最後の大仕事。それが修論発表でした。

「やっとここまで来たか。」

そんな感じです。

ここであらためて、入学当初に立てた目標を思い起こしてみると、

1.日本語教育能力検定試験合格
2.1年以上の実務経験
3.学歴・研究業績

1.は1年目の2月にとることができました。2.は日本語学校で1年経験を積ませていただいた他、企業研修生や技術研修生への日本語教育、また細かいことをいえば、学部留学生に対するチューターと、自分としては満足のいく経験値を得ることができました。

さらに3.については、周りの方々に助けていただきながら何とか個人1本、共同2本揃えることができました。この結果にも、自分としては満足です。

後は学歴、つまり首尾よく卒業するだけです。

院の修論発表は割と広い教室で行われ、参加は自由。たいていの場合、日本語教育研究科の院生と教員がほぼ全員出席。そして部外者がちょろちょろ、といった感じだったと思います。

で、私の修論は語彙の研究で、その内容は簡単なアンケート調査とその語の持つ評価性についての考察、という2本立てでした。(内容の詳細は勘弁してください。生涯で一番抹殺したい過去です。)

なので副査は、統計に詳しい言語学の先生と文法がご専門の先生の2人。

「大丈夫。ちゃんと論文出したんなら、よっぽどのことがない限り口頭試問で落とされることなんかないよ。」

と先輩。

「そうですよね。」と言いつつ、「よっぽどのこと」というフレーズがどうしても頭から離れない自分。

-よっぽどのことって、例えばどういうこと?

そんなくだらないことをしばらくは考えながらも、さすがに発表直前ともなると「なるようになれ。」とばかりに開き直って、とりあえず発表だけはしました。そこで自分がどんなことを言ったのかはさっぱり覚えていません。ただ、言語学の先生からは、

「評価性についての記述は非常にいいと思いますが、アンケートのやり方は全くなっていません。」

と言われ、また、文法の先生からは、

「アンケート結果については非常に興味深く意義があると思いますが、評価性の記述については全く論文の体をなしていません。」

と言われ、

「結局両方ダメってことか。」

とへこんだのは今でもしっかり覚えています。

「あんなに厳しいこと言わなくてもいいじゃないねえ。」

と、会全体が終わった後で先輩からいただいた慰めの言葉も、その時の私としては「頼むから、もうそこには触れないでくれ~。」としか思えませんでした。

-もしかして、これが「よっぽどのこと」?…

十中八九大丈夫と思いながらも、一抹の不安がよぎりました。

数日たって「合格」と聞いた時には、2年分の力みがようやく全身から抜けていくような感じになりました。

-ふぅ、何とか収まった。

「よかった。」というよりは「ほっとした。」といった感覚です。

振り返ってみれば、広島での2年間は本当に何がなんだかわからないことばかりで、文字通り異国から来た留学生のような感覚でした。

だから、最後の最後まで恥のかきっ放し。

「あいつ、いったい何考えてんだ?」

いろいろな方にそう思われていたんだろうと思います。

それでもがむしゃらに動き回ってやってきた分、卒業するころには両手に余るほどの財産を得ることができました。(もちろんお金ではありません。)

「どうせ俺は他大学他学科出身。いつかかく恥なら今のうちにかいとけ!」と、半ば開き直って「得るべきものを得る」を最優先にしたのが、結果的に次のステップにつながったのではないかと思います。

それにしても、……なんというか………なんとも言いようのない2年間でした。
こうして、私の長い長い学生生活は終わったのでした。